日本の公立小学校に転入したとき「帰国子女だから英語話せて当たり前だよね」と言われて傷ついた。海外に住むことはとても貴重な経験だから、羨ましいとかだったらいいけれど、海外に住んだら頑張らなくても自動的に英語が身につくというふうに聞こえて嫌だった。海外といっても、非英語圏な国もたくさんあるし、言葉が通じない辛い思いをし、努力を重ねて英語を習得したので、「当たり前」と言われ悲しかった。
アメリカで「日本人だから寿司が好きでポケモンに詳しい」という偏見をたくさん受けてきた。相手は日本に興味を持ってくれているから寿司が食べれなくても、ポケモンをあまり知らなくても「わからない」と正直に言うのは難しく、場の雰囲気に合わせて適当に相槌を打っていた。悪気は無くても国籍や人種から趣味や知識などを押し付けることはよくないと思った。
中国に引っ越すと伝えたとき、友達から「中国人は怖い」と心配された。私も、初めは中国人が皆怒っているように聞こえ、怖く感じた。しかし、言葉が理解できるようになると、日本語にはない中国語の四声(イントネーション)により怒っているように聞こえていただけだと気がついた。実際は親切な人が多くいるため、偏見があることにとても悲しく思った。
知的障害の特別支援学級の教員になる前は、知的障がいがある生徒に対して知識がないが故に特別視していた部分があった。実際に担任として接していくなかで、それぞれが苦手なこと等があるだけで、他の生徒と同じ生徒であると感じた際に、私がもっていた障がい者の方々への偏見に気が付いた。
有名大学に通っている人がすごいと思っていた。しかし、実際に人生において大切にしているものを伺ったり、目標や夢を持っている人と話すと、必ずしもそうではないことを知った。
大阪出身の人はおもしろくてノリがいいという固定概念を持っていた。しかし、実際に大阪出身の人に話すと、そういう偏見は多いが、全員がそうではないので一括りに決めつけられるのはいい気分がしないと言っていた。それ以降、人それぞれ違うことと、理解する前から噂などを鵜呑みにしないように意識している。